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スモールフライで釣るビッグトラウト  --第2話--

水柱

翌9月2日、ゆっくりと朝食を済ませてからエムに向かった。太陽はノルウェーに居る時と同じだ。相変わらず燦々と照りつけ、地上にあるもの全てをからからに干上がらせそうに見えた。

エムに着いてみると、ホームプールの周辺で10人ほどが釣りをしていた。エムは河原がほとんど無く、バックスペースが取りにくいのに、スペイキャストをしている人はほんの僅かしか居なかった。
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海に向かって川沿いに歩くと、林の中に古いスモークハウスがある。

この年のノルウェーでも、殆ど全てと言ってよい程のアングラーが、フラットビームを使用していた。遠投が簡単、フライの落ち方が良くてドラッグが掛からないから、瞬く間にノルウェー中に広まったのは判るが、ここエムでも使用している人が多いのにはびっくりした。

ノルウェーのサーモンリバーと違って、エムは川幅が狭いから、フライをもっと遠くまで投げたいと言う訳ではないだろう。私はその理由が気になって、一人のアングラーに尋ねてみた。すると、スペイキャストをしないのは静かに釣りたいから、と言う答えが返ってきた。確かに相手が如何に海から遡上したシートラウトと言えども、この緩やかな流れを釣るのに雑音は禁物なのだろう。
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強い風が吹き付けるシー・プール。オーランド島が遠くに見える。

私は真っ先にこのホームプールを釣りたかったが、なにぶん人が多すぎる。空くまで待っている訳にもいかないので、もう一度川の様子を見ることにした。明るい光線の下ならもう少し水中の様子が判るかも知れない。

森の中を抜け、スモークハウスの前を通って海に出ると、思いのほか風が強かった。シー・プールには波が絶え間なく打ち寄せ、そこだけを見ているとまるで冬景色のようだ。一人のアングラーも見えないのが、余計にそんな気分にさせた。

暫く見ていたが釣れそうな気配がない。我々はシープールを諦め、岸沿いに歩いて上ることにした。50mほど歩いてピアー・プールの脇に差し掛かった時、川底に怪しい影を見つけた。そっと近寄って見ると、60cm余りのシートラウトが流れの中で定位していた。私の持っていた16フィートのロッドで頭を叩けるくらいの距離である。暫く見ていたが、全く動く気配がない。試しにフライを投げてみたが、予想通り何の反応も示さなかった。やはりこの時間は可能性がないのだろうか。
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堤に沿って流れるピアー・プール。川底で眠っているようなシートラウトを発見した。

ローソンプールは魅力的だった。中心部の水深はかなりありそうだ。しかし幅が狭く流れも速いのに、両岸は巨大な岩が不規則に並んでいて、歩くだけでも大変だった。ここを早朝や夕方以降に釣るとなると、余程の注意が必要となる。案の定、翌朝、我々の見ている前で一人のアングラーが岩につまずき、プールの中に頭から飛び込んでしまった。安全に釣るには、水際から少しばかり離れた方が良さそうだ。

そこから上は真っ黒な岩がまるで富士山の溶岩帯のように広がっていた。近づいて見ると、大きな岩の間に深い溝が無数に走っている。水は澄んでいるのだが、岩が黒いために底の様子がなかなか見えない。更に悪いことに、その溝の上を鮮やかな緑の藻が覆っているものだから、うっかり足を踏み入れると、忽ち水没する羽目に陥る。数日後、ここでも水面に帽子だけ残して沈んでしまった人が居た。
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夕暮れのローソン・プール。この川岸の様子を一目見ただけで、暗くなったら近づきたくない。

屋敷の前のホーム・プールは何度見ても良さそうだ。広くて深く、流れ込みの周辺には巨大な岩が数多く沈んでいるのが見える。その付近で時々大きな水柱が上がった。ローソン・プールでも数回のライズがあったが、大きな波紋だけだった。ところがここホームプールでは波紋に混じって、全身を露わにする跳ねが幾つも見えた。大きい。かなりのサイズだ。ざっと見ても1m近い魚を数回目撃した。跳ねる場所が近いのと回りが静かなため、凄まじい迫力だ。悔しかったら釣って見ろと言わんばかりに、水飛沫をまき散らしていた。

その上のパイク・プールも凄かった。流れ込む瀬が大人しいため更に静かで、水際に立つと小鳥の声しか聞こえない。しかし5分も居ると、その静けさを叩き割るような凄まじい音と共に巨大な水柱が上がる。少なくとも10kg近い魚が跳ねているに違いない。

ここリバー・エムは現在5月と9月にそれぞれ一ヶ月半ほど釣りのシーズンを設けている。一日に入れるアングラーは15人までである。15人がこの範囲に散れば、川はがら空きのように見えるが、実際は河口からパイク・プールまでの間に集中するから、どこのプールにも人が居ることになる。
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溶岩帯に水が張ったようなアンカークローナ・プール。
明るい陽射しの下でも、歩くには細心の注意が必要。

橋の下のポケット

朝、我々が川に着いた時、大勢のアングラーがホームプールを取り囲んでいた。ところが戻ってみると2人だけになっていた。その2人は魚の跳ねの最も多く起こるプールの頭を、両岸から挟むように釣っていた。私もその付近を釣ってみたかったが、相変わらず場所が空きそうにないので、プールの流れ込みに点在している大岩の隙間に目を向けた。そこは軽自動車ほどの岩が幾つか水面に頭を覗かせていて、その間が深い溝になっている。水深がどのくらいあるのか全く見当が付かないが、この渇水の条件下では、魚が隠れるのに誂え向きの場所に違いない。

さてそのポケットをどうやって釣るか。私は周囲を眺めながら考えをめぐらしていた。ポケットの上流側から釣りたいのだが、両岸とも川岸が高い木で塞がれていて立つ場所がない。右岸の下流側からなら投げられるが、手前に流心が流れている。ラインが落ちれば直ぐに下流に引っ張られてしまい、フライが沈むまでの時間を稼ぐことができない。見下ろせる場所から釣るにはどうすれば良いだろう。いっそのこと橋の上から降りて、川の真ん中を歩いたらどうだろう。平水なら考えられないことだろうが、ここまでひどい渇水だと、簡単に歩けそうに見える。
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橋の上から歩けるルートを慎重に探した。

私は橋の上から何度もルートを確認し終えると、橋桁を伝って川におり、慎重に歩き始めた。歩いてみたら何のことはなかった。簡単に流れ込みの直ぐ上に立つことができた。そこは光線の具合が良く、付近の溝の様子がはっきりと見えた。目当てのポケットは私の僅か15m程下流にある。流心に沈んだ岩の間に幅3m、長さ4mほどの小さな口を開けていて、数条の藻が川底から伸びていた。
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エム・シュリンプ。この時初めて使って以来、今だかって期待を裏切ったことはない。

私は渓流の落ち込みにウェットフライを投げ込むようなつもりで、4番のフックに巻いたエム・シュリンプを投げた。この時初めて使うパターンだったが、水の少ないこんな状況に威力を発揮しそうに見えた。

5回ほど投げた時、リーダーとラインの先端が落ち込みに引きずり込まれるように伸びていった。フライが沈む流れに上手く乗ったようだ。

私は頃合いを見計らって静かにロッドを持ち上げた。フライラインに続いてリーダーが上がってきた。その角度からして、溝がかなり深いのが判る。そのリーダーの頭が水面から少し持ち上がった時、コツンと小さな当たりのような感触が伝わって来た。

私はそのまま静かにロッドを持ち上げた。リーダーはそれ以上浮いてこない。ロッドを更に持ち上げると、ラインがピンと張った。しかし根掛かりかどうか心配する必要は無かった。リーダーの先で何かが動き始めたのだ。
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石の上に乗って下流に見えるポケットを狙う。

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ホームプールの頭を狙うには都合の良い場所だ。大きい魚がかかったら? その時はそのとき。

根擦れ

魚だ。それもかなりの大物だ。川底を転がる丸太に針が掛かったような感触が暫く続いていたが、やがて魚はポケットを出て下流に向かい始めた。下流に向かうと言うと、フッキングした後に遁走するような響きがあるが、その魚は安眠を妨げられた猫が、新しい寝場所を探すように、川底をゆっくりと動いている。針に掛かったことなど意にも介していないようだ。私が差し上げたロッドの上でリールがゆっくり回転している。時々何か引っかかるような感触が伝わってきた。ラインが藻や岩に触っているのが判る。私は伸びたラインを出来るだけ空中に出そうと、ロッドを高く上げ続けたが、あのゴツゴツと言った厭な感触と共にラインが止まってしまった。
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1魚は止めようのない力でもって大岩の間をゆっくり下流に動いた。

空中に張ったラインを静かに引いて見たが、ロッドが曲がるだけだった。糸切れ覚悟の上で強く引いた時、急に引き戻された。それが最後だった。それ以降、引いても緩めても一向に外れる気配がなかった。私はゆっくり岸に戻り、角度を変えて引いてみたが、それも無駄だった。仕方なくラインを手で掴んで引っ張った。それはずるずると30cmばかり動いた所で急に軽くなった。

巻き上げたラインの先にフライは無かった。リーダーはバット部分から傷つき、先端が白くささくれていた。掛かった魚にあの岩の間を潜り抜けられたら、多分こうなるだろう。そう想像していた通りのことが起こってしまった。

-- つづく --
2002年05月05日  沢田 賢一郎