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洪水と日照り  --第5話--
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1712のグリップを曲げながら、一瞬も休まずにファイトを続けた。

境界

2度ジャンプした後、サーモンは下流に下り始めた。走っている訳ではなかったが、ジィー、ジィー、ジィーと私の手の平の中でリールのスプールが逆転を続けた。一度逆転する毎に3m程のラインが出て行く。出て行くたびにサーモンは私から離れ、私の鼓動はそれに連れて速くなった。

サーモンの動きが止まったとき、私のロッドの先から50m程のラインが伸びていた。この魚は捕れないかも知れない。私の頭の中でそんな気持ちが次第に大きくなってきた。

頭を振って抵抗するだけで、ラインが出て行ってしまう。それを止めることもできないのだから、本気で走られたら一巻の終わりだ。もし下流に走らなくても流心に向かわれたらラインが流れを横切る。時間の問題でそれに木の枝、否、運が悪ければ丸ごとの木が掛かって全てが終わるだろう。どう考えても悲観的な状況に変わりない。しかもその悲劇が目の前に迫っている。

私は黙って何もせず、運命に身を任せるつもりはなかった。ぐずぐずしていられない。一刻も早く勝負を着けなければ。長引けば私の負けになる。
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ルンダモの主、ルドルフ・マスラ氏。

私は右手でリールをしっかり押さえると、腰を落として倒れたロッドを起こしに掛かった。私が力を入れた分ロッドが曲がったが、ロッドの先が動かない。私と魚とは50ポンドのフラットビーム、30ポンドのフライライン、マイナス8Xのリーダー、そして4番のトレブルフックによって繋がれている。フッキングが悪くない限り、思い切り引っ張れば最初に壊れるのはロッドだ。ロッドさえ折れなければ、他を心配する必要がない。

私は両手に更に力を込めてロッドを起こした。前年のブリッジプールの時と同じように、グリップのコルクまで曲げた。これが限界だ。

サーモンは僅かずつ上がってきた。私はその動きを止めないよう、ポンピングを続けた。17フィートが飴のように曲がっている。私はロッドが起きない時はそのまま後ろに下がり、頃合いを見て前に歩きながら、ほんの少しでもラインを巻き取った。

もう少しでフライラインの端が見えそうになったとき、サーモンは急に頭を振ると反転した。私は間一髪リールのハンドルで手を叩かれるのを逃れたが、折角、何分も掛けて巻き取ったラインが、一瞬の内にリールから飛び出して行った。
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ランディングに成功。大きいのは判るが、重さの見当が付かない。

サーモンは真っ直ぐ流れを下ると、先ほどと同じ所で止まった。私はそれが不思議に思えた。魚が反転して下る時、全く同じコースをとることは殆どない。もしかしたら、サーモンは濁流を嫌っているのではないか。そうだとしたら、あの凄まじい濁流に乗って下られてしまうことを心配しないで済む。濁りを嫌って岸寄りの澄んだ流れに避難していた魚だ。それは充分に考えられる。

流心に突っ込まない魚なら、ランディングすることができるかも知れない。私は暗闇の中に一筋の光明を見出したような気がして、先ほどと同じように渾身の力を込めてポンピングを再開した。しかし今度は10mも引き寄せない内に反転された。長いリールの逆転音が鳴り終わったとき、サーモンは更に下流に行ってしまった。

それでも私の想像が当たったのか、サーモンは濁流との境目に沿って下った。遠くまで走ったおかげで、私の真っ直ぐ下流に居る。先ほどは少し強引すぎたようだ。もっと慎重に、魚を刺激しないように引き寄せなければ。
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15cmもあるスティングレーが消えたと思ったら、喉の奥に張り付いていた。

3回下ったのに一度も流心に向かわなかったから、あのサーモンは濁流には入らない。私はそう信じて静かにポンピングを開始した。腕がだるくなってきた頃、サーモンは私の下流にある淀みに入った。彼が最初に休んでいた所だ。その淀みができている所は、岸近くまで流れが緩くなっている。私はそれを利用して、彼を岸に向けて引き寄せた。
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大きな胸びれ。しかしバランスが良いため、大きく見えない。

フライラインの端が見えた所で、サーモンは真っ直ぐ沖へ走った。そして再び濁流の境目で止まった。私は一瞬、血の気が引け、どっと冷や汗が出た。大丈夫だ。彼奴は濁流が嫌いだ。

大石

私は少しずつ引き寄せる力を増やしていった。無理や油断をしなければ、サーモンが流心に向かわないことが判った。後は不測の事態が起こらないよう、なるべく早く勝負を着けることだ。しかしサーモンは重く、その力はなかなか衰えを見せない。

フライラインの端が漸くロッドの先に入り、今度こそと思ったら、2、3秒後にはもう水中に消えている。そんな状況を何回も繰り返したのち、サーモンは遂に水面に姿を現した。水の透明度が悪いため鮮明ではなかったが、背びれと尾ひれの先を水面から突き出して、悠然と泳ぐ姿を間近に見たとき、私は最初に味わったのと同じような寒気を感じた。

12kgではない。もっと大きい。
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6月のフレッシュ・フィッシュ。銀と黒が鮮明に分かれる。

ファイトはいよいよ終りに近づいて来た。私は魚を決して休ませないよう、ロッドを限界まで曲げ続けた。さすがのサーモンも長く走れなくなり、岸近くに留まるようになったが、これだけの魚をランディングできる場所が見あたらない。私の下流は傾斜が急だし、下ることもできない。何とかもう少し上流まで引き上げないと、魚を刷り揚げる岸がない。

何処まで引き上げれば良いかと思って私が振り返ったとき、恰幅の良い白髪のアングラーが、巨大なネットを持って私の直ぐ上流に立っていた。先ほどから上流で釣っていたアングラーに違いなかった。私が挨拶するのと同時に、彼はニコニコと微笑みながら水際に向かった。
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抱きかかえようと思ったが、持ち上げることができない。

助かった。何と幸運なことか。私はこの幸運を逃さないよう、最後の詰めに入った。しかしサーモンは岸に寄せられることを嫌い、頑強に抵抗した。私はロッドの力を最大限に利用するため、魚から離れ上流から引き寄せた。
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1712Dがトラウトロッドのように見える。

岸際まで引き寄せること数回目で、巨大なネットがサーモンを包んだ。そう思った直後、サーモンはネットから身を乗り出しかけた。彼はネットを反転させ、サーモンに被せた。そのネットから、再びサーモンが身を乗り出した。私は咄嗟にロッドを草むらに放り投げ、ネットに向かって走った。

間一髪間に合った。私はランディング・ネットの縁を掴み、身を乗り出しかけたサーモンを網の奥に押し込むと、そのまま一気に岸に刷り上げた。岸に上げるとき、異様な重さを感じた。その時は夢中で判らなかったが、落ち着いてから見ると、ネットの中には大きなサーモンと一緒に、何と10kg以上もある大石が入っていた。

美形

サーモンは濁流の中から上がってきたとは思えないほど、美しく銀色に輝いていた。そして色だけでなく、姿形がもの凄く美しかった。12kg以上あることは判ったが、それ以上の見当が付かない。

取りあえず写真と撮ろうと思って抱えたら、それ以上持ち上げられなかった。そして驚いたのは、フライラインで作ったストリンガーでぶら下げた時、ラインが二度も切れた。フライラインは30ポンド以上の強度がある。と言うことはこの魚は少なくとも15kgあることになる。
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121cm、18.1kg。クラブハウスに運んでやっと正確なサイズが判った。

それほど大きな魚というものは、普通、形が少しばかりおかしなものだ。バランスが崩れていることによって、その魚が大きいことが際だつものだ。しかるにこのサーモンは余りにバランスが良く美形なものだから、どうも大きさがぴんと来ない。

本当はどのくらいだろうとマリアンと話している所に、サーモンを掬ってくれたアングラーがバネ秤を持ってやって来た。手でぶら下げているから正確ではなかったが、その目盛りは40ポンドを指していた。18kgもある。我々は目を疑った。NFCのクラブハウスに持ち帰って計ったら、体長121cm、体重は本当に18.1kgだった。

この時サーモンを掬ってくれたのは、ルドルフ・マスラと言うドイツの有名なバイオリン・マイスターだった。案の定、彼は15年以上もこのビートを釣り続けていた。我々はそれ以来、毎年釣り場で開かれるパーティに招かれ、親交を深めている。彼は大変なワイン通としても知られているが、酔うと必ずサーモンと一緒に掬った大石の話をして、周囲を笑わせるのが常だった。


-- つづく --
2002年12月29日  沢田 賢一郎