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渓流編  --第1話--
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1973年頃の金峰山川、西の又上流部。朝から晩まで釣りをしても、釣り人に出会うことは全くなかった。

金峰山川のイワナ

灼熱の太陽が降り注ぐ中、冷たく澄み切った水が、思わず目を細めてしまうほどに眩しい白泡を、幾つも作りながら流れ落ちる。私はそんな谷を遡行するのが大好きで、長い年月、私にとって真夏の最も楽しいイベントであった。

谷は明るければ明るいほど快適だ。おむすびのような花崗岩、川岸に広がる石楠花、涼やかな唐松の緑、そして水面を漂うフライまでが、まるでスポットライトを当てられたように輝いている。

私がこうした明るい谷に通うようになったのは、ある一つの谷を釣ることから始った。1972年からだと記憶している。その年の6月30日、私は友人と一緒に小諸から南下し、松原湖を越えて夕刻、千曲川の流れる川上村に着いた。

翌日は前日とうって変わって朝から雲一つ無い快晴である。

私が今でもその日付を覚えているのは、その天気のせいで、この年は7月1日に梅雨が明けたのである。こんなことは後にも先にも記憶がないし、話に聞いた試しもない。気象庁の発表がどうであったか定かでないが、少なくとも私の居た千曲川では梅雨が明けていた。

その当時、渓流でフライロッドを振る釣り人など、五日市の養沢を除けばほぼ皆無に近い状態であった。今日の千曲川の様子を考えると、正に隔世の感がする。そんな時代の話だから、その頃の私は「空が曇ってくれれば良いのに。よりによって雲一つ無く晴れ渡ってしまうなんて、なんとついていないのだろう」その程度に考えていた。
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源流帯特有のプロポーションをした尺イワナ。
大口を開いてフライを飲み込む。

それでも新しい川、未知の渓谷に向かう時の心のときめきは言葉では表せない。私は期待に胸を膨らませながら、金峰山川と呼ばれる支流に向かい、地図に西の股と書かれた沢に友人と別れて釣り上がることにした。

金峰山川は千曲川水系では珍しく花崗岩を敷き詰めた川である。陽が射すと河原全体が眩しいまでに輝く。流れている水もまるで蒸留水のように澄んでいるものだから、深い淵の底まで丸見えである。つまり、当時の常識から言えば、曇天か小雨の日でもなければ、朝夕の間詰め時しか釣れない川であった。

私はそう言った常識は百も承知であったが、初めての谷を遡行する楽しさの方が優先していて、それほど気になってはいなかった。

合わせ切れ

午前8時頃だったと思う。もう既に昼間の気配のする谷に入った私は、フライボックスから12番のロイヤルコーチマンを取り出し、0.8号のリーダーに結んだ。当時、未だテーパーリーダーなる画期的な糸は生産されていなかった。
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ロイヤルコーチマン。1970年代、フライフィッシングを始めた人の大半が、先ず最初にリーダーに結んだフライ。

私がそのドライフライを投げ込んだ二つ目のポイントで何かがフライ目がけて飛び出した。反射的にロッドを起こすと、何の手応えもない。おかしいと思ってリーダーの先を見ると、そこに有る筈のフライがない。しまったと思ったが後の祭りである。しかし、合わせ切れを起こしたのだから、フライに飛び出したのは魚である、そう確信できた方が嬉しかった。

「しめた、ここには魚が居る」

確かに魚はいっぱい居た。けれども、私がこの手で掴んで、それが綺麗なイワナであることを確認するまで、私は更に数本のフライを同じ理由で失っていた。0.8号なんか使わないで、それまで通り1号を結んで置けば良かったと思い始めた頃、行く手を阻むかのように、目の前に堰堤が現れた。澄み切った水がまるで絹の糸のように幾筋にも分かれて落下している。下流から近づいた私は、その水が滴り落ちている淵を覗いた途端、はっとして動きを止めた。大きなイワナがこちらに背を向けながら水面に浮いているのを見つけたのだ。

私は魚に悟られないよう慎重に移動し、そのイワナの背後に回った。距離はたかだか5メートル程である。イワナはそんな私に構わず、時々体を左右に振って流れてくる何かを捕らえている。横を向くとその大きな目がはっきりと見えた。
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西の又の下流部。この辺りは傾斜が緩い。

私は慎重にフォルスキャストを行って、フライをそのイワナの1メートルほど前方の水面に落とした。と同時に、左手で摘んでいたラインを離した。

水面に落ちたフライは流れの筋に乗ってイワナに近づいていく。その距離が3分の1ほどに縮まった時、イワナは水面から背鰭を出しながらフライに近づき、バッサリと飲み込んだ。少なくとも私にはそう見えたから、落ち着いてロッドを持ち上げた。ところが何と言うことだろう。フライは何の抵抗もなく戻ってきた。

「どうして」不思議に思いながら水面に向けた私の目に、食べられる筈だった餌を夢中で探しているイワナの姿が映った。何だ、未だフライをくわえていなかったのか。

私はもう一度慎重にフライを投げた。今度はもう少しイワナに近い所に落ちた。するとイワナは忽然と消えてしまった餌を再び発見した喜びからか、前回とはうって違ったスピードで突進し、フライを押さえ込んだ。今度は合わせるのと同時にリールが鳴った。ラインを持っていないせいでリールが逆転し、合わせ切れを防ぐことができた。

イワナは30センチ近い大きさの丸々と太った身体をくねらせながら水から上がってきた。

堰堤を越えた後も、イワナは次から次へとフライに飛び出してきた。瞬く間に数匹のイワナを得た私は、友人と落ち合う時間が迫っていることを知ると、後ろ髪を引かれる思いで、今しがた歩いてきた河原を戻った。
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西の又の堰堤から現れたイワナ。
下顎の先にブラックナットがとまっている。

炎天下のドライフライ

短い時間であったが、この日の体験は私にとって新しい発見となった。イワナがあの目にも眩しい真夏の炎天下、ドライフライに出てくることが判ったことは何よりも新鮮だった。イワナが真夏の真っ昼間に釣れることなど、今では誰も疑問に思わないが、今から30年近くも前、日本のフライフィッシングの黎明期には誰も信じていなかった。それどころか、「フライフィッシングなる釣りは、極端に太い糸を使うため、外国の魚であるニジマスを釣ることはできても、日本の俊敏な渓流魚を釣るのは不可能である」といった記事が専門誌に掲載されていた時代である。やがてそのフライフィッシングでヤマメが釣れた記事が載ると、今度は「ヤマメは釣れてもイワナは釣れない」と書かれる始末だった。

尤も、フライの愛好者、未だ人口は僅かだったが、彼らでさえ渓流でドライフライを行うのは不可能と信じていたほどである。そんな時代であったからこそ、私は真夏の炎天下、とびきり明るい川でドライフライを使ってイワナを釣ることが、新鮮で面白くてしかたなかった。この時以降、私は何の躊躇いもなくそうした真昼の谷に入るようになった。

翌週、私は待ちかねたように再び金峰山川を目指した。リーダーを1号に変え、ロイヤルコーチマンをフライボックスにいっぱい詰め込んで、最初と同じ西の又に入った。1週間経つうちに水量が減り、白泡だらけだった渓に緩い流れがたくさん誕生していた。空は相変わらずくっきりと晴れ渡り、更に強くなった陽射しが川に降り注いでいた。
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西の又の源流部に群生するシャクナゲ。5月下旬に美しく咲き乱れる。

イワナは私の期待していた通り、殆ど全てのポイントから顔を出した。何匹ものイワナを釣るうち、私は一つのことに気が付いた。それはフライに出てくるイワナが皆、とてものんびりしていることだった。いや、イワナだけでなく、帰りに寄った本流や、他の支流から出てきたヤマメもまた、ひどくのんびりとしているのだった。私はこの川に来てから、我々以外の釣り人の姿を未だ一人も見ていなかったから、初めは釣り人が少ないせいで魚がのんびりしているのかと思っていた。しかしその内、夕方近くになると魚が途端に敏捷になることに気が付いた。ゆっくりとフライに近づくのは昼間特有の現象だった。

次の週も、又その次の週も、私は魅せられたように金峰山川の河原を歩いていた。ほぼ一ヶ月かけて、私はこの川の本流と西、東、両方の沢の大部分を踏破していた。魚はどの地域にも充分に生息しており、渓相によって変化する魚の反応を楽しんでいた。ところが時が経つに釣れ、魚の出方がますます遅くなってきた。のんびりを通り越して、もはや横着と言って良いほどである。落ちたフライが水面を流れ始めても、直ぐには出てこない。自分が定位している場所の真上に来るまで待っているのだ。特に流れ出しに居る魚は、フライが間もなく下の淵に落ちてしまうぎりぎりのタイミングで出てくる。

この年、私は全く偶然に梅雨明け当日から釣りはじめ、一ヶ月ほど誰にも邪魔されずに魚の変化を見ることになった。それ以来、「梅雨明け十日」と言う言葉が生まれた。別に7月1日でなくても、その年の梅雨明けから10日間、海抜の高い渓や山奥深くを流れる渓は、フライで釣るアングラーにとって正に天国となることを知った。

-- つづく --
2001年02月20日  沢田 賢一郎