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桂川編  --第103話--
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激震

水柱が起こった場所の直ぐ横に、岸に押し上げられた流木があった。その流木のシルエットが30mほど下流に見える。未だ早いと解っていても緊張してきた。彼奴は今、何処にいるだろう。水柱からさほど離れていないのは解っている。恐らく半径5m以内に居るはずだ。あと数回フライを流せば怪しい水域に突入する。私はダウン&アクロスにラインを伸ばしながら、ミスキャストしないことだけを念じていた。

対岸側に打ち込んだフライが流心を横切り始めた頃、突然ラインが引かれた。まさかこんな所まで移動していたとは。私は一瞬慌てた。同時に確実にフッキングできたことを知って安心した。しかしその直後、ラインの先で暴れている魚が、その軽さから目的の魚でないことが解った。私は無理をせず、しかし必要以上に暴れさせないようにラインを手繰った。先ほど釣ったのと同じくらいのニジマスがリードフライをくわえていた。私は静かに針を外し、そっと流れに戻した。ため息が出た。張りつめていたものが途切れ、どっと疲れが出た。

彼奴は必ずこの先に居る。間もなくその水域に入る。予定通り明るさもタイミングも丁度良い頃合いだ。私はフライとリーダーを点検すると下流を見ながら大きく深呼吸し、慎重に流れを釣り下った。川幅が広がり始めたため、一流し毎に流れが緩く単調になってきた。私はそれまで岸際を歩いてきたが、膝丈まで静かに水に入った。目印の流木までもう20mを切っている。私のフライは水柱が起こった場所の直ぐ上流を静かに横切っている筈だ。
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驚くべき体高と厚さ。体長45cm、体重は優に1kgを超えていた。

万一フライが流木に引っ掛かりでもしたら万事休すだ。私はそれを防ぐため、ラインが下流に伸びきる前に静かにロッドを持ち上げ、少し早いタイミングでラインを手繰った。そして一投毎に1mほど下りながら、静かにフライを投げ続けた。フライはいよいよ流木の真横に差し掛かった。この付近がこの瀬の中で最も魅力的な地域だというのに、予想通り何の当たりもない。今日はこれまで3匹のニジマスを釣り上げた。その状況からすれば、この付近で当たりが有ってしかるべきだ。
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6番のピーコッククィーン。グレートセッジと共に桂川でも大物キラーの名を欲しいままにしていた。

当たりが無いのは悔しい。しかし小物の当たりが有ったらもっと悔しい。私はまた1m下ると注意深くラインを伸ばした。下流の対岸が暗い藪になったため、フライを投げた付近がよく見えない。私は全身をレーダーにして気配を察知し、流れてくるフライを感じ取っていた。

沈黙

それから数回、私は目眩がするほど緊張しながらフライを流し続けた。何の当たりもない怪しい時が過ぎ、私は流木の直ぐ上にいた。フライはもう水柱が有った場所より下流を流れている。目の前に広がる流れは余りに静かで、物音一つ聞こえなかった。あと数投で最も怪しい水域を抜けてしまう。このまま終わってしまうのだろうか。彼奴はもう何処かに移動してしまったのだろうか。いや、必ず居る。居るからこそ核心部だというのに何の当たりも無いではないか。沈黙こそ彼奴のような大物が存在する証拠だ。
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川茂堰堤のやや上流部。大雨が降る度に川相が目まぐるしく変わった。

私は一歩下ると暗い対岸に向けてラインを伸ばし、それまでと同じようにフライの着水と同時にロッドを対岸側に向けると、一度だけラインを張ってからフライを流した。かなり下流に向けて投げているから、フライは落下と同時にハンギング状態でゆっくり流れを横切っている筈だ。彼奴はこの付近に居てじりじり後退りしながら、もう何回も私のフライを見てきたに違いない。そろそろ決断する頃だ。

「フライが欲しくないのか、捕まえるならこれが最後のチャンスだぞ」

ピーコッククィーンが流心を横切りだした時、私は静まりかえった水面に向かってそう念じていた。

突然グーンとラインが引かれ、リールが一瞬ギッと鳴った。起こしたロッドは大きく曲がったまま止まった。不安な一瞬が過ぎ、手元にドスン、ドスンと荒い振動が伝わった。彼奴だ。間違いなく彼奴だ。水柱の主が遂にフライを捕らえた。読みは間違っていなかった。

私は走り出すであろう相手に備え、右手を高く上げてその時を待った。しかしその魚は急に走ることをせず、大きく頭を振りながらじわりじわりと下流へ降り始めた。普通、針掛かりした魚は暫く頭を振った後、止まるか走るかするものだ。それなのにこの魚は、私が止めるのをはばかるほど執拗に頭を振り続け、下流に下って行く。私はフッキングした瞬間と同じくらい、あるいはそれ以上に緊張した。この振動、この暴れ方はブラウンではない。ニジマスでもない。間違いなくヤマメだ。水柱の主、彼奴はヤマメだったのだ。
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ギッ、ギッ、ギッとリールが小刻みに逆転を続けた。私はその魚を水面に出さないよう、無理をせずラインを送り出した。15mほど下ったところでその魚はやっと止まり、今度は右に左に円を描くように泳ぎ始めた。暫く泳ぎ回ると止まり、頭を振りながら浮上する。そんな動きを数回繰り返した後でようやく大人しくなった。

私は静かに魚を引き寄せにかかった。そしてラインを巻き取りながら改めて足下を見直した。岸に打ち上げられていた流木の片割れが、私の足下にもあったからだ。水面が光っていて下流側が良く判らなかったが、予想外の所にあるかも知れない。本来なら流れの緩い岸寄りに移動してファイトを続けるのが安全だ。しかし私はその場所を動かずネットを開いた。ゆっくり近づいてきたからもう大丈夫かと思ったが、その魚はネットを見ると同時に流心へ走った。それを3回繰り返した後、遂に力尽き私が差し出したランディングネットに収まった。

勘違い

私はロッドを小脇に抱え、ネットの中を覗き込んだ。その魚は頭を下、尻尾をこちらに向け、身体中にネットを絡めていた。私の目にその尻尾と背中の青、そして腹の銀色が飛び込んできた。私は愕然とした。

「そんな馬鹿な。ニジマスだなんて」
「お前はニジマスのくせにどうしてあんな引き方をしたのだ」
「あれはヤマメの引き方ではないか、ニジマスならニジマスらしくすれば良いのに」
「人に期待を抱かせておいて、なんて云う奴だ」

私は空を仰ぎ、思わず溜息をついた。そしてネットを引きずったまま岸に向かった。ニジマスが悪いのではないけれど、どうしてあんな引き方をしたのだろう。桂川を釣るようになって以来、ファイト中にヤマメとニジマスを間違えたことはなかったのに。
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大型化すると、普通のヤマメともサクラマスとも異なる桂川独特のスタイルとなる。

何れにせよフライを外さなければ。私は河原に膝をついてネットの中へ手を入れた。凄い体高と厚さの魚だった。片手で胴体を掴めない。長さも45cmは確実にあったから、ニジマスでも決して悪いサイズではない。私は左手を更に差し入れ、絡みついたネットを外してその魚の頭を上に向けようとした。

「えッ」
「鼻が尖っている」
「もしや」

私は居ても立ってもいられず、思いきってライトを点けた。ランディングネットの中を照らしながら、魚に絡みついたネットを外した時、思わず息を飲んだ。そこに紛れもないヤマメの姿があった。淡い光の中、青い背中に黒い小さな斑点が散っていたのを見て、私がニジマスと勘違いしただけだった。改めて見るにつけ、その体躯は異様だった。それをじっと見ていた私の胸に様々な思いが去来した。

少し落ち着きを取り戻してから、私は掛かった針を外そうとして異変に気づいた。魚の様子がおかしい。水から上げないよう気をつけていたのに、ファイトが長かったか、あるいは太りすぎていたせいか、ヤマメは既に虫の息であった。

-- つづく --
2007年02月09日  沢田 賢一郎