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サクラマス編 • 黎明  --第28話--

サクラマス

大きい魚を釣りたい--------初めて魚釣りをしたのは何歳の時だったか覚えていない。私が忘れたのでなく、おかしな言い方だが、自分の年齢をはっきり覚える頃には、もう既に何度となく釣りをしていたから、何時が最初だったか判らない。古い言い方なら、「釣り竿を持って生まれてきた」となるのだろう。何故そうなったか。私の父が極め付きの釣りキチガイだったからだ。幸か不幸か、私には生まれた時からそれを受け継ぐ環境が整っていた。
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魚種を問わず大型の渓流魚には、猛禽類を思わせる凄味と美しさがある。
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奥只見の銀山湖。ルアーを始めた頃に良く通った。

小さい頃、私は自分の体力に見合う釣りなら何でもした。小学校に上がる前はハヤ、フナ、クチボソ、ハゼと言った小魚を釣っていた。私の体力では、それ以上の魚を釣る竿を持てなかったからだ。小学校の4年生になる頃には、ハゼ釣りともなれば、両手に一本ずつ竿を持って釣りまくった。時には親父を抜いて、乗合船の竿頭になることもあった。その頃から人の何倍もの魚を釣ることが珍しく無くなった。しかし、小魚を釣っていても、一番大きいサイズを釣ったかどうか気になって仕方がなかった。ハゼやワカサギを何百も釣っておいて、その中の大物、と言っても、たかだか他の魚より1、2cmばかり大きいだけだが、それを釣ることは、私にとって大切なことだった。

小学校の高学年になると、毎年、庭に出て何回も鮎竿を持った。今日と違って、紙のように軽いカーボンロッドはおろか、グラスファイバーの竿さえ無かった時代だ。短くても三間半の和竿は両手にずっしりと応えた。私がそれを担いで川に入るのは未だ無理だったから、庭で竿を構えるだけで我慢した。残念だったが、鮎釣りは中学に入るまで待たねばならなかった。
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1970年、丹沢でヤマメを釣る。この頃から渓流をルアーで釣ることを止めた。

その待ちに待った鮎釣りに夢中になった頃から、私の大物指向は更に拍車がかかったように思う。それから間もなく始めたヘラブナ釣りでも、私と、当時よく一緒に出かけた弟は、大物釣りのメッカとして名高い相模湖の名物になってしまった。大勢の大人を後目に、若い兄弟が大物を釣りまくったためだ。

しかし、決して大物しか釣らないと言うことではなかった。単に欲張りのせいだと思うが、小物も随分と釣った。自分の意識の中では、小物を逃しているようでは、大物など釣れる訳がない。そんな考えが、そのころ既に私を支配していたような気がする。鮎を釣りに行けば、目の前の瀬にいる鮎を一匹残らず釣りたいと思ったし、ヘラブナを釣る時も、自分が糸を垂れている入り江の中の魚を全て釣りたいと、何時も思っていた。

やがて、ルアーを始めると、対象魚ががらっと変わった。それまで長年通い慣れた相模湖や津久井湖でブラックバス、鮎釣りで通い慣れた、多摩川、桂川、道志川、狩野川などではヤマメやニジマスを、そして子供の頃にハゼを釣った江戸前でスズキを釣った。

何度も訪れたことのある河原や水の上で、それまでと全く違う道具を使い、違う種類の魚を釣る気分は何ともおかしなものだった。成長したと言うか、時代が変わったと言うか、とにかく上手く言葉に言い表せない不思議な気分だった。
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雄のブラウン。鱒類を釣り始めてから、鼻や顎が曲がった魚が何時でもトロフィーとなった。

釣りはどんな種類の魚が相手でも、それなりの面白さが必ずあると私は信じている。だから釣り方が変わったからと言って、私が鮎やヘラブナを釣るのが面白くないと感じた訳ではなかった。

只、一つ変わったことがあった。マス類を釣るようになってから、魚の美しさに大いに目覚めるようになった。ヤマメは勿論のこと、イワナもニジマスも、美しさだけでなく、一種の神々しさを、その大物は備えていた。特別大きな鮎もヘラブナも、その片鱗を備えていたが、彼らの前には到底及ばない。大物を釣り上げると、その美しさにしばし呆然と見とれることが多かった。そうした魚を釣る度に、小物を沢山釣ることが、私の目標から次第に外れていった。

そうこうしているうちに、ブラックバスが対象魚から外れた。どう見ても美しくなかったからだ。更に時が流れ、釣り上げたヤマメが40cmを越え、イワナや湖のサクラマスが50cmを遙かに越えた時、それまでかっこいいと感じていたルアーそのものを止めてしまった。釣り上げた魚の口元に留まっているルアーが、その魚の美しさ、気高さに、何とも不釣り合いに感じたからだ。
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1971年、カナダのバンクーバーで開かれたサーモン・ダービーに参加した。
トロフィーはキング・サーモンだが、釣れるのはコーホ(シルバー・サーモン)ばかりだった。
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ダービーが終了してから北に飛んだ。小さな川にも雪代の混じった水が溢れんばかりに流れていて、そのスケールの違いに圧倒された。

遡河性マス

時代が少しずれるが、1970年代に入る頃、私はマス類の大物を釣ることにいよいよ集中していった。その当時、日本で大物を狙うとなると、銀山湖のイワナか北海道のイトウが先ず候補の筆頭に上がった。銀山湖はその頃まで何回も出かけていて、イワナやニジマスの大物を手にしていた。しかし雪代で増水した川が流れ込む場所をルアーで狙って釣ったものばかりだった。その頃の腕前、ノウハウ、タックルの全てを総動員しても、とてもフライで釣れる代物ではなかった。イトウに至っては、本物を見たこともなかったくらいだから、正に対象外だった。

そこで私が目を付けたのが鮭とサクラマスだった。私は当時手に入れた遊魚規則書のページをくまなくめくって、どこか釣れる場所がないか探した。しかし残念ながら規則書から判断する限り、可能性は極めて少なかった。先ず鮭を釣ることは日本中で禁止されていた。それをうたった資源保護法というものがあることを、私はこの時初めて知った。サクラマスと言う名前はなかなか見つからなかったが、変わりに遡河性マスという表現が多く見つかった。

川を遡上するマスという意味だから、サクラマスやカラフトマスが対象になるのだろうけど、アメマスは含まれるのだろうか。誰に聞いてもはっきりした返事を貰えることはなく、判らないことばかりであった。それでも、規則書を読んでいると、その遡河性マスを釣ることのできる県が幾つか見つかった。そんな時は、暗闇で一筋の光明を見いだしたかのようであった。しかし喜びも束の間、一月から八月まで禁漁という但し書きが付いていたりして、遊魚則書を見る限り、結論はほぼ絶望的であった。
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釣り場に向かう途中、車から降りて支度もせずにフライを投げてみた。釣れたのは小さなドリーバーデン。日本なら立派な渓流だが、こちらでは名もない小さなクリーク。

サーモンとスティールヘッド

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カッパー・リバーが増水し、濁流と化したため、支流のスプリング・クリークに移動。小さなレインボーとホワイト・フィッシュを釣る。
国内で鮭や大型のマスを釣ることは殆ど不可能と判った。だからと言って簡単に諦めたくなかった。海外の本や雑誌には、日本では考えられない巨大な魚の写真が沢山載っていた。どの魚も私にとって憧れであり、夢のような姿をしていた。何時かそんな魚を釣ってみたいと思っていたところに、格好の話が飛び込んできた。カナダで毎年行われるサーモンダービーに日本から参加するアングラーの募集があった。当時は、海外で魚を釣ることが未だとても珍しい時代だ。果たしてどうなるものか、何から何まで不安なことだらけであったが、釣り場まで行けば何とかなるだろう。心配していたら切りがない。最後はそんな風に開き直って参加することにした。

1971年、私にとって初めての海外の釣りとなったサーモンダービーは、何と言うことなく終了した。それだけで終わっていたら、私のその後の釣りは、少しばかり回り道をするか、停滞していただろう。しかし私はそのダービーが終了した後も、数日間カナダに留まり、バンクーバーから遙か北のテラスに飛んで、サーモンとスティールヘッドに初めて相対した。その時の衝撃は言葉で言い表せないほど大きかった。日本的な表現を借りれば、正に、大河で巨大魚と格闘すると言うのがぴったりあてはまる。そんな釣りにあこがれていた私は、その日以来、スティールヘッドを最高のターゲットとして、フライフィッシングを考えるようになっていった。

-- つづく --
2001年11月25日  沢田 賢一郎