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サクラマス編 • 第1ステージ  --第40話--

焦り

目の前の流れに憧れのサクラマスが居た。それをこの目で見た。直ぐにでも自分自身の手で釣りたい。それなのに九頭竜川はまるで映画の中に出てくるアマゾン川のように、見渡す限り一面の泥水となって流れている。魚が避難しているかも知れない場所は何カ所か見つかったが、増水前は草むらだった所ばかりで、どうもがいても手も足も出ない。

おまけにこの雨は随分と広範囲に降ったと見えて、通い慣れた高原川に電話してみると、あちらも大増水で当分釣りができそうもないという有様だった。
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国道8号線の上のプールを釣る。激しい減水のため、池のようだ。

仕方なく引き返したものの、寝ても覚めても、あのサクラマスの顔が瞼に浮かんでくる。じっとしているのが辛い。直ぐにでも行きたかったが、あの日以来、不順な天候が続いている。三日に一度の割で雨が降るものだから、届くのは何時までたっても水が引かないという知らせばかりだった。

まんじりともせず待つ間にゴールデンウィークが迫ってきた。ここまで水が多いなら、再挑戦をずっと遅らした方がよいだろう。前年の経験から一抹の不安があったが、山には未だ雪が残っていると言う話を聞いてそう判断し、連休明けまで待つことにした。

五月は夏か

四月の半ばと五月の二週目では季節が全く違っていた。山はまだまだ春と思っていたのが、いつの間にか初夏になってしまった。半月ぶりに車を走らせると、ヒーターをエアコンに切り替える始末だ。

水の様子が気になるから、私は高速道路を降りる前にいつも足羽川の流れを見る。その日の足羽川は大人しく流れていて、雪代の名残はすっかり消え失せていた。

暫くぶりに福井に降りてから、川を見るのが怖かった。去年のような渇水だったらどうしよう。

いつものように五松橋を渡った時、眼下の九頭竜川の水位は事前に予想した最も低いものより更に低かった。しかも今まで見たこともないほど澄んでいたため、川底の石まですっかり丸見えである。

どうして悪い方にばかり振れるのだろう。この九頭竜川に何度も足を運ぶうち、川の様子について地元の人から随分と話を聞いた。それによると、ゴールデンウィーク明けの五月は雪代が流れなくなるので、大増水することもなく、川の水位は平水なのが普通だそうだ。しかも濁りがとれ、一年中で最も美しい季節だという。
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後に庄平岩と名付けた岩の上から機屋裏上の水路を釣る。平水時、ここはほとんど水中に没する。

そうなる筈と信じている私にとって、目の前の川は悲惨としか言いようがない。去年と同じようにウグイ釣りに最適な水位となっている。その去年の渇水時にあちこちのプールを見て回ったことが、今年の増水時に随分と役立ったことから、私は範囲を更に広げて再びプール巡りを始めた。

手始めに幼稚園前プールを釣ってみた。川底が前年より幾らか埋まったせいかも知れないが、対岸に歩いて渡れるほど減水していたのには本当に驚いた。私は流れ込みの付近まで歩き、試しにフライを投げてみた。もしかしたら一匹くらいサクラマスが残っていないかと期待したが、そんな儚い希望もウグイの猛襲に掻き消されてしまった。

溝の中の輝き

私は前年と全く同じようにそのまま河原を歩いて機屋裏へ上がった。増水時に湖のように広がる機屋裏のプールは、どちらが上流か判らないほど小さく静まりかえっていた。私は露出したコンクリートブロックの上を歩き、更に上流へ向かった。その上は岩盤に沿って溝ができている。この辺りは去年のままだ。さすがに変化がない。

もと来た方に引き返そうと思った時、岩盤の直ぐ側で何かが跳ねた。上から石が落ちてきたのではと思いたくなるほど岸に近い。ものの10秒もしないうちにまた跳ねた。何だろう。姿は見えないが小魚ではなさそうだ。
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後に水道局と呼んだ瀬を歩いて渡り、下流に向かう。

私は岩の上を静かに歩き、今しがた魚の跳ねのあった場所の直ぐ脇に立った。再び何かが水面を割った。跳ねると言うより、浮上した魚が水面でターンしているように見える。まるでドライフライに出てくるイワナのようだ。

何だろう。数回目の飛沫が至近距離から上がった時、はっきりとその魚の正体が見えた。それは大きなウグイだった。40センチを越えるものも少なくなかった。恐らく海から遡上したマルタだろう。彼らの産卵期がいま始まろうとしているのだ。

それから数分間、私は幾つもの飛沫を目で追っていて、その中に気になる跳ねを見つけた。それはほぼ同じ場所で数回起こったが、どう見ても魚の色が違う。ウグイはみな赤身を帯びたオリーブ色だが、その魚は水面で眩く光っていた。私は急いで上流側へ移動し、その跳ねが起こる辺りにフライを流してみた。数回に亘って丁寧に流したが、何も起こらない。そしてその跳ねは止んでしまった。明らかにウグイと思われる跳ねは、フライが何回通り過ぎても相変わらず起こっている。その跳ねだけ止んでしまったのだから、ますます怪しい。

あの魚は何だろう。気のせいでなく、腹が銀色に見えたからウグイではないだろう。しかし40センチを越えるくらいの大きさだし、細く見えたからサクラマスとも思えない。いろいろと考えを巡らしてみたが、それ以上どうすることもできずに引き上げざるを得なかった。
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同じ年の6月、秋田の米代川を釣ったが、ここも渇水のため池のようだ。

ヒゲナガ

夏のように強い陽射しの中、私は送電線の下から下流に向かって川沿いに歩いていた。前回は枯れ草ばかりだったのに、辺り一面新緑に覆われている。合流点プールの開きに差し掛かった時、私は水際にブナの新芽の殻みたいなものを見つけた。気になって近寄ると、驚いたことにそれは全てヒゲナガの抜け殻だった。それから更に下って高速道路の手前のプールまで下った時、右岸にある砂利山の窪みに、大量の抜け殻を発見した。初夏の本流で釣りをしていると、時々こうした抜け殻の山を見ることがあるが、これほど大量に溜まっていたのは初めてだった。大きなウグイが無数にいるのもこれで頷ける。ピーク時の夕方は、一体どれだけの数のセッジが飛び回るのだろう。想像しただけで背中が痒くなりそうだった。

しかしサクラマスが居たら、このセッジを食べるのではないか。大ヤマメが狂ったようにライズするくらいだから、サクラマスが食べてもちっとも不思議はない。

私はそこまで想いを巡らした所で、その日は夕方まで残ることを決心した。イブニングライズに、サクラマスが水飛沫を上げながらセッジを食いあさる光景が目に浮かんできて、確認しない訳にいかなくなってしまった。
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岸際の窪みに大量に流れ着いたヒゲナガの抜け殻。何十メートルにも亘って溜まる様は少々薄気味悪い。

国道8号線の下流まで川見物を終えた頃、川はすっかり夕方の気配に包まれていた。もしかしたらとんでもない光景に出くわすかも知れない。私は再び上流に戻ると、フローティング・ラインの先にマドラーミノーとピーコック・クィーンを結び、機屋裏のプールへ向かった。

岩盤下の溝に着くと、相変わらずウグイが跳ねていた。暫く待つ間に辺りが薄暗くなり、かなりの数のセッジが飛び回ったが、巨大な水飛沫はおろか、ウグイの跳ねまで次第に減っていった。更に暗くなるにつれ、川は期待とは裏腹に静けさを増す有様だ。

またしても振られてしまった。けれども、絶好の条件でライズが無かった訳ではないから、単にサクラマスが居なかっただけかも知れない。それなら結論は持ち越しだ。

私は黄昏に霞んで見える九頭竜川に向かって、「また来年やって来るぞ」と叫んで土手を上った。

-- つづく --
2002年02月17日  沢田 賢一郎