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サクラマス編 • 第1ステージ  --第43話--

機屋裏

風もなく、空には薄日が差していた。土手の上を歩いて来たせいもあって、うっすらと汗をかいた私は、河原の茅の上に腰を下ろし、目の前のプールを眺めた。左手上流は大岩を押し流さんばかりに急流が落ちてきている。それが直ぐ上流で急に広がり、深くて広いプールを作っている。右手はそれが河原一杯に広がって、幼稚園前プールへと繋がっていた。

私はその流れの様子を何度もなぞるように眺めた。この広いプールにサクラマスが居るとすれば、一体どこに居るだろう。これだけの水量のプールだから、何処にいても不思議ではない。

もし1000匹いたら、そこら中にいるだろう。私はそんな想像をして、ふと気が付いた。このプールにウグイなら間違いなく1000匹いるだろう。しかしそこら中にいる訳ではない。開きの方の緩い流れに殆ど全てのウグイがいて、それ以外の場所にはいないだろう。1000匹もいる魚を釣るのにさえ場所を選ぶのだ。ほんの数匹、もしかしたらたった一匹しかいない魚を釣ろうというのに、今まで何と適当にフライを流していたものか。「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」正にそれを実践していただけではないのか。こんなことでは一生かかってもサクラマスは釣れない。
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機屋裏プールの一点に的を絞り、ラインを伸ばし始めた。

怪しい流れ

私は改めて機屋裏プールを穴の開くほど見つめ直した。このプールにたった一匹しかいなかったら、そいつは何処にいる。もし一カ所しかフライを投げてはいけないと言われたら、何処に投げる。
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アクアマリンが流心を横切る。来るなら今だ。

流れ込みでできた大きな波が次第に収まっていく様を見ているうちに、私はまた一つの想像をめぐらした。自分がガリバーになったらこのプールが随分と小さく見えるだろう。渓流のプールほどに感じるに違いない。その淵にサクラマスでなく、その子のヤマメが一匹だけいたら、何処を泳いでいるだろう。

本当にガリバーになったつもりでプールを見つめるうち、私の目は流心の一点に釘付けになった。

こんな淵が渓流にあったらヤマメはあそこにいる。この広大な機屋裏プールのあそこにサクラマスが居る。
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グリーンとピンク・ブルーのアクアマリン。誕生した当時は、シングルフックに巻いていた。

私の横には15フィートのランドロックが立てかけてあった。そのフックキーパーには、この日のために新しく結んだフライが掛けてある。私は目の前にあるそのフライを見直すと、一度だけ大きく深呼吸し、ロッドを下げて水辺に向かった。10メートルも入らないうちに腰まで水に浸かった。私はそこからもう一度流心を眺めた。ここから釣り始めると、目当ての地点まで数投で到達する。私は既に予定された作業をこなすようにラインを引き出すと、流心目がけてフライを投げ始めた。一投毎に凡そ2mほど下がって行く。4,5回投げただろうか。沖に向かって延びるフラットビームから、フライが流心を横切り始めたことを知らせる重みが伝わってきた。何という心地よい重さだ。フライが遙か彼方を生きて泳いでいる。

流心を通り過ぎた時、ラインがふっと軽くなった。私はそれを感じると同時にラインを左手で手繰った。
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ラインの先で何かが暴れている。本物に違いない。

衝撃


2回目、フライが流木に取られたようなショックと共に止まった。起こしたロッドに魚が頭を大きく振る振動が伝わってきた。

「来た!」

「本物だ」

私は岸にいた森さんに叫んだ。叫んだ時、思わず「本物だ」と付け足してしまった。掛かってほんの数秒だったが、ウグイでもニゴイでもない、サクラマスであることを確信した。

暫く経って、サクラマスは森さんの差し出したネットに収まった。手応えの重さから、最初はかなりの大物だと思った。しかしファイトがそれほど強くなかったため、これは小さなサクラマスではないかと思い始めていたが、ネットの中には64cmの銀色の固まりが入っていた。私は一瞬その姿に見とれたが、直ぐフライを探した。フライは彼女の口の奥深く仕舞われていた。

お祭りのような騒ぎだった。と言っても、その日、九頭竜川に居たのはたった4人だったから、はた目には静かなものだ。けれども、私にとってこの広い川に居たサクラマス、長い年月憧れてきたサクラマスをフライで釣った感慨はひとしおだった。
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九頭竜川でサクラマスを手にする夢が現実のものとなった。
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サクラマスは居た。この広大な流れの中で、遂に私の投げたフライを捕らえた。

神がかり

魚の写真を撮り終わり、我々はふと空腹なことを想い出し、急いで昼食を摂った。春の日は短い。急がないと暮れてしまう。私は昼食前に眺めたプールをもう一度想い出していたが、機屋裏プールのあの一点と同じ流れを、他のどのプールでも見つけられないでいた。もう一度行っても無駄だろう。見つからないに違いない。私は思いきって下流に向かうことにした。

午後4時頃、私はかなり赤味を帯びてきた太陽を背に、土手の上から下流の様子を眺めていた。九頭竜川は国道8号線付近まで下ると、その流れの様子を土手の上から見ることができる。私は車をゆっくりと走らせながら様子を窺ううち、気になる流れを発見し、付近の様子に見入った。

8号線の下を潜った九頭竜川は、河川敷を左から右に折れ、もう一度左に曲がる。そこから下流が細くて長いプールとなっていた。流れ込みは狭く、かなりの急流となっていたが、川幅が広がるにつれ、深くゆったりとした流れに変わっていた。私の目は、その長いプールの一点に吸い付けられていた。機屋裏プールと同じ、あの怪しい流れができている。
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その美しさ、眩しさに、ただ溜息だけがもれる。
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すっかり保護色になっても、眼光の鋭さは変わらない。

周囲の川岸には何処と言って特徴のある場所がない。砂と枯れた茅が河原一面を覆っているだけだ。この位置から真っ直ぐ降りればその流れのある場所が判るが、手前に深い溝ができているので、越えられそうにない。あのポイントを釣るには川伝いにずっと上流から降りて来なければならないが、場所を見過ごしてしまうかも知れない。

私は遠くの建物と、後ろにあるグリーンのネットの位置を比べ、河原に降りてから山立てするつもりで覚えると、一度上流に戻ってから川岸を目指した。

土手を降りてから暫く歩いて、漸くそれらしき場所に到達した。遠くから眺めると流れの様子や川底の変化が良く判るが、目の前まで近寄ると、皆同じように見える。私は覚えておいた遠くの目標から、自分の位置が間違っていないことを知ると、流れの様子を改めて観察した。
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怪しい流れの下からまたサクラマスが浮上した。

川幅にそれほど変化が見られないが、少し下流から岸の傾斜がきつくなっていた。恐らく川底も同じように変化しているのだろう。その辺りの水面が微妙に揺れ動いていた。正に今朝見た機屋裏プールと同じだ。私は午前中の出来事が、読みが的中した結果なのか、それとも単なる偶然だったのか、それが知りたくてうずうずしていたから、一刻も早くフライを投げてみたい衝動に駆られていた。同時に、あれが偶然だったらどうしようという不安もあった。
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立て続けに2匹のサクラが釣れた。これまでの日々が嘘のようだ。

機屋裏プールと同じように、私はその怪しい地点の少し上流から釣り始めた。10投もしないうちに、その地点に差し掛かった。サクラマスがここにいる。その期待と不安とが入り交じった中、下流に延びたフラットビームから、あの絶妙なテンションが伝わってきた。間違いない。サクラマスはここにいる。そう確信した時、再びあの衝撃がやって来た。

サクラマスはいた。本当にいた。姿を見せず、気配も感じさせなかったが、滔々と流れる雪代の中で、タイプ2の先に結んだ新しいフライを押さえ込んだ。マリーン育ちの宝石のような魚に相応しいということで、そのフライをアクアマリンと呼ぶことした。

-- つづく --
2002年03月10日  沢田 賢一郎