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高原川編  --第84話--

幻覚

最初のフライは、イワナに粘膜をさんざん塗りたくられたため、辛うじて浮くのが精一杯だったが、新しく結び代えた2本目のマセオレンジは、大きなスペント・ウィングを思い切り広げて、ぽっかりと溝の水面に浮かんだ。ゆっくり流れていく姿は、まるで小さなトンボのようだった。

溝の中頃に達したとき、ちょうど木漏れ日がそこだけ差し込んだように、フライの向こう側が急に明るくなった。どうしたのだろうとフライを注視した瞬間、私は我が目を疑った。水面に金色に輝く魚が居たのだ。

私の身体は金縛りにあったように動くことができず、息をするのも忘れて目の前の光景に見入った。金色の魚は水面で大きな口を開けると、近づいてきたフライをゆっくり飲み込んだ。私の目はその魚に釘付けになっていたが、腕は勝手に反応し、魚がフライを捕らえるのと同時に動いた。
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釣り上げたイワナの肌は、金色から黄色、そしてオリーブ色と、みるみる変化した。

針掛かりした魚は潜ることもせず、ただ水面を泳ぎ回った。身体を大きくくねらせるたび、金色の泡が四方に飛び散った。

引きの強い魚ではなかった。私は頃合いを見て直ぐ脇に居た加藤庄平のネットを借り、その魚を掬った。

「何だ、この魚は」
「何という色のイワナだろう」

後は言葉にならず、二人でネットの中を見つめていた。

河鹿蛙

珍しいイワナだから写真を撮らなければ。そう思って辺りを見渡したが、あいにくその付近は暗かった。私はそのイワナをネットに入れたままナメ滝を這い上がった。幸い滝の上は再び明るい川原が広がっていた。

私は水際に在った大きな岩に魚を載せ、バッグからカメラを取り出して写そうとして気が付いた。魚の色が変わっている。ネットで掬ったときは目映いばかりの金色だったのに、色が黄色に変わってきた。ゆっくりして居られない。私は大急ぎで写真を撮り始めた。

写真を撮ると言っても、釣り上げた直後の魚は、なかなか大人しくしていない。シャッターを切ろうとすると動いてしまう。そうこうしている間にもイワナの色は変わり続けていた。次第にオリーブ色に変わったかと思うと、色そのものが消えてきた。そして最後は頭とヒレを除いて真っ白になってしまった。
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最後には頭とヒレを残し、色が消えて白くなってしまった。同時に死んでしまった。

不思議なことに、色が無くなるのと同時に、そのイワナは口を大きく開いて急死してしまった。私は水の精にでもからかわれているような気がしたが、幻覚ではないことに、目の前に真っ白なイワナが確かに横たわっていた。

これは一体どうしたことなのだろう。私はその変わり果てたイワナを恐る恐る持ち上げた。そして大きく開いた口の中を見たとき、驚いてイワナを放り投げそうになった。

口の奥から不気味な目で何かが睨んでいた。私は魚をしっかりと持ち直すと、頭を下に向けて振ってみた。何と喉の奥から河鹿蛙が出てきたのだ。不気味な目の正体は判ったが、それで気味の悪さが消えることにはならなかった。

初めから金色だったのか、誤って河鹿蛙を足の方から飲み込んだことが原因となって、体色が変わって仕舞ったのか、それは判らない。どちらにせよ、金色の魚を釣ったのは、後にも先にもこと時以外になかった。
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喉の奥から何かが睨んでいた。

夕暮れ

金色のイワナで大騒ぎした後、魚影は再び薄くなった。しかし薄くなったと言っても下流とは違って、極上のポイントからは必ず顔を出す程度の濃さであった。我々は自然と歩くペースを速め、次々に現れるポイントを交互に釣り上がった。

時計の針が4時を過ぎた辺りから、様子が一変した。イワナの数が増え、新しいポイントにフライを投げると、必ずと言って良いほどイワナが飛び出し、フライをばっさりと飲み込んだ。

魚の食いがよいのは嬉しいが、如何に10番のスピナーでも、続けて5匹以上の魚に飲み込まれると、浮きが悪くなってくる。フライを交換したり、ドレッシングに漬けたりする時間が増え、ペースが急に落ちた。

魚の反応は良くなる一方だったから、もっと上流に行きたかったが、谷底に夕暮れの気配が忍び寄ってきた。入渓点からもう4km以上遡行している。危険な場所は無かったが、川通しに戻るのに1時間近く掛かる筈だ。
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出てきた河鹿蛙は、同じように頭を残して色が無くなっていた。

私は時計を見ながら釣り続けた。5時になったら引き返そう。その前に加藤庄平が止めようと言ったら、迷わずに止めるつもりでいた。彼も同じことを考えていたのだろう。私の顔色を窺うような素振りを見せ始めた。

「庄平さん、あと一匹釣ったら止めよう」

自分でそう叫んでおいて、私は可笑しかった。あと一匹釣ったら止めようと言うと、魚は急に釣れなくなるものだ。そう思うと釣れなくなるのか、或いは、釣れなくなってくると、そう言いたくなるのだろうか。

もし釣れなくても5時になったら止めるつもりだったが、幸運にもこの時は二人同時に最後の一匹を釣り上げ、めでたく釣りを終えることができた。
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死んだ後でも、体色は他のイワナと全く違っていた。

最後に釣った淵に右岸から支流が流れ込んでいた。出発前に地図を見たとき、その沢伝いに登って林道に出ることも考えたが、沢は直ぐ先で高い滝となっていた。先の様子も判らない。少なくとも夕方に登るような沢で無いことははっきりしている。我々はフライを外し、全てのラインをリールに巻き込むと、休むことなく下流を目指した。

6時近くになって、行く手の川原に葉の付いた木の枝が見えた。良かった、これで一安心だ。もう迷う心配もないし、急ぐ必要も無い。我々はほっと息をつくと、身支度を改めて点検し斜面に向かった。

目の前にあの見事な木苺が生えていた。その先の森の中は既に薄暗くなっている。降りたときに見た糞や、折られた枝を思い出すと、背中がぞくぞくした。

「さあー登るぞ」

我々は周囲に良く聞こえるよう大声で叫ぶと、上の林道を目指した。

-- つづく --
2004年07月17日  沢田 賢一郎